頓挫する

日常の中ではあまりに多くのことが頓挫する。すべての事柄たちがひたすらに頓挫していって、遅延し続けることでタスクは巨大な概念に結合していき、ふと気がつくとみんなみんな「いろいろやるべきこと」になってしまうのだ。


なのでそんな現状を回避するためには、こつりこつりと日々の暇を費やして、エネルギーをがんばって捻り出して、積もり積もらぬよういそがしく降り続く埃を掃わなければならない。


ああ、どうか神様、勝手にやっといてください。
正直なところ毎日やるなんて面倒くさい。
はげしくめんどうくさい。
めんどうがひどくにおう。


ズボラーな毎日をおくることで得られるものってなんだろう。ちょっとずつの積み重ねがしあわせを形成しているとしたならば、しあわせってそういうズボリングの数々のことのような気がするんだけど、このことを口外すると誰かに後ろ指さされそうなので考えないようにしよう。


積み重なったもののしたに積み重なったもののしたに積み重なった・・・
もののしたになにがあるのかはもうわたしは知らないですよ。

あまりに曖昧

表面をなぞるような表現たち
こそばゆい虚脱感を齎す
そしてそれを味わう
空想の中の現実を語る個人的な“通った”感覚


実際の出来事で話を綴る場合には読者の共感を得やすい
外向きの文章とは本来そういうものでなくてはいけないと思う
実際に起きた事は想像が容易いが
抽象的な概念のみでは他者との共有は難しい


けれどここはオナニーの場所
自己意識を投影して自らの内部の木構造を再構築する場
仮想の他者や外部を想定し対話する
対話によってアイロニカルな視点を
自らと仮想の他者との間の中に生み出すことができる


仮想の他者とは無自覚の自己の傀儡
その裏方の黒衣であるメカニカルな意識たちと対峙する
論理的である必要はない
むしろ無秩序であるほうが真に迫る不思議さ


それら無意識の内乱の共有物こそ通ったものの正体
混沌さから導出される成果物
それは他者へと伝わる能力を一切そぎ落とされている
自分だけの理解の象徴
理解は他者とは共有できない
理解の共有のためには適切な道程が必要
要素の次元が下がれば下がるほど他者と共有事項が増える
お互いの体験の共有によって共感を得る
最も次元の低い要素のストーリー性をもった羅列こそ最大限の共有行為
物語は出来事を網羅することで中間質を炙り出すメソッド
描写の写実性が増すに従って現実感も増し共感の事項が増加
現実は粗悪だが精緻な共有のストリーム
我々の持つ唯一の方法

何も知らない

認識していること

知っていること

のあいだにはたいへん大きな隔たりがあって、

知っていること

ほんとう

のあいだには更に大きな亀裂が走っていて、

ほんとう

げんじつ

のあいだには途方もないほどの距離、またはそもそもそれらは別の場所にあって重なり合うことは永久に有り得なくって、

げんじつ

認識していること

は、お互いにほんとうだと思い込んでいて、


けれどもそれらすべては同じことのように僕らに取り扱われ、使われ、変えられてしまって、皆の中にそれぞれ違った形で置かれ、共有されて見せ合って、それが私にとっての本当であってしまっている。

現実を認識し知ることは、その認識した現実を真実として摩り替える為だけの行為に過ぎないが、少なくとも嘘っぱちでも、閉じられたほんとうのことよりもほんとうらしいのではないかと私は思う。
認識し知ることのできない現実よりは、ずっと本物らしいが、本当かどうかは現実に聞いてみないと、知ることはできない。
それを認識できるかどうかはどれだけ自分が本当らしいかどうかである。

ライフログのしらべ

基本的に、自分は記録魔である。

自らに起きたほとんどすべての事象において、外部的な情報として残したいという願望を、何故だかはわからないが常に持ち合わせている。つまるところ単に“カタチ”として残しておきたいという浪費されていく時間に対する補償行為でしかないんだろうけど、どこか本能的ともいえるほどの衝動に駆られることも常々あるほどだ。


今回は情報としての側面から、自分のロギング行為について考えてみる。


まず、第一段階として、それらは多くの場合、データ化され、ストリームとして保存される。
ストリームは生の連綿とした情報なので、後になってから手を加えられない限りにおいて、そのカタチを保持し続ける為に存在するものである。確固たる属性を持った「流れる時間そのもの」が、ある一定時ごとに区切られ、キャプチャされ変換されたものであるという認識である。


次に、ストリームはデータとしての意味付けを行われる。
フローしていた情報たちは部分部分の定数として切り出しデジタル化され、傾向や指数的な指向性について導き出された新たな情報を与えられることになる。そしてそれらの情報は中間的、つまりメタ的な意味情報として先ほどのデータに付与され、構造上、上へと積み上げられていく。


それらの試行は時間の経過や気分の変化によって徐々に繰り返されていき、やがて最終的にそれらのデータ群はピラミッド様の構造をとる。一般的に成果物と呼ばれるものはこのピラミッドの先端部にあるほんの少しのパーツである。この先端部は、「わかりやすいが大雑把」な意味しか保有してはいないが、我々にとって“わかりやすいこと”というものが精神に与えている影響はとても大きなものであり、その他の「わかりにくいが精確」であることよりも、より(思考するうえでは)扱いやすいものなのではないかと思う。


たとえば、一年間、体重のログを毎日決まった時間に取っておき、一ヶ月毎の平均の推移の状況をみる。すると一年のうちで、明らかに上がっている時期と、そうでない時期があることに気がつく。そこで他の情報、即ち「9月は仕事が忙しかった」とか、「正月にぐうたらして食べ過ぎた」等の曖昧だが自分にとっては必要十分な意味を付与してやる。すると先ほどの情報から(間違っている情報も含んではいるものの)、自分にとっての理由付けが成し遂げられる。この自らの生きてきた証である足跡や残した情報といったものの中において、虚無だった空間が有に変わるという安心感こそが、ロギングの最も重要な要素のひとつではないかと思う。


情報に意味を与えることはできるが、データとして存在していない情報、つまりある程度実体化されていない情報については、私達はそれらを思考することすら困難なのかもしれない。


ライフログは自らにおいてのすべての無秩序なストリームから、自分の認知できるカタチでデータストリームを変換して外部に抜き出し、補償行為として使用している行為に過ぎない。


文字や文章を書くことも、日記を書くこともこれに該当するだろう。しかしながら、これらの行為こそが文明と呼べる知識や智恵そのものだ。ピラミッドの先端部にある有用な情報だけを本に記録し、そしてそれを複製することによって教育が為される。それらの有用な知識を使用して得られたデータストリームは、個々人というフィルタによって漉され、新たな意味を持ったストリームへと変化する。そしてそこにまた新たな意味が付与される時、これらの行為はライフログ、つまり生活の記録という呼び方ではなく、研究や調査、学習、勉強といったより具体的な名称へと姿を変えるのだ。


大まかな概念を考えるならば、人生におけるすべての記録行為がライフログと呼ぶことが出来る。それらが記録される限りにおいては。


#生きるということそのものが社会への記録行為かもしれない

生きた心地がしない

手紙だったりメールだったり、図書館で本を借りることも、誰かに何かして貰うことも、全部ぜんぶそのすべての間隔にある時間が嫌いだ。
生きた心地がしない。
何かを借貸しているという、その拘束されたような、そして体じゅうを高級な羽毛で常にくすぐられているかのような感覚は、私の身の毛をとても強くよだたせる。

すべては想像のせいだ。わかっているけどやめられない。それは自動機械のように、入力に対して正確無比に結果を提出するだけなのであって、あいだに“それではない何か”を差し込もうものならば、その影響が出る前に私という機械は先手を打って想像をより膨らませてしまうのだ。

だから想像もしない。考えない。ほかのことをする。しようとする。


けれど手紙はこない。返事はこない。なにもかえってはこない。かえってこようともしていない。いやかえってくる気がない。相手に返す気がない。何が原因だろうか。原因があるはずだ。いや私よりもみんなすぐれているのだから、私が何かわるい、そうだ私の文章、自分の文章が悪い?そうなのか?読み返してもわからないので、たぶんおそらくこの文はふつうじゃない。普通じゃない何かが含まれていて、いやむしろふつうじゃない何かで覆われていて、全体がもうおかしなふうになってしまっているのだろう。だからかえってこない。かえってこないのは仕方がない。だって返す必要もないのだから。なぜなら私がふつうじゃないから。そうずっとふつうじゃなかったから、普通のことがどうしてもできていないのだ。普通にがんばってなって、ふつうをそれなりに獲得する筈だったのに、どうして普通じゃないの?みんなができて、私にはできないことって、全部が全部、すべてだよね。


それがコミュニケーションだというならば、そんなものいらない。
ほんとうにいらない。さみしいけどいらないよ。


会って話ができたなら、きっといろいろと知ることができるから、私は知ることができてから、安心を得る。
安心がなければ、心はざわざわと蠢いて、どこかあなぐらのなかから、手だけを出して、寝てしまいたくなる。
横目でそっと、眺めたくなるから、もう誰もかれもがみんなみんな、お返事をください。

にんげんのゆくすえ

人間はいずれねっころがってあそぶだけになる。
さっきお風呂とお風呂上りの時間と合わせて二時間ほど考えて出した(極めて主観一方的な)論理による結論だから(主観的には)間違いない。


今夜は地上波テレビで放送していた「アイロボット」を観た。
SFというだけで相当なわくわく感を放っているし、人間の要素を懐疑的に切り取って未来に対する議題を提起するためにわざわざSFという手法を用いているところは、流石にうまいなぁと思ってしまった。(映画のできとしては、CGがとてもよいということと、主人公のイメージはウィルスミスじゃないだろ、と思った以外にとりわけて気になるところはなかったので、案外捨てたもんじゃないといったくらい。)


それと今回、この映画を観るのは二回目だったわけなんだけど、不思議といろんなことを再認識というか、中間質的な感覚に定義を打つことができた。
まず、どんなに忘れ去ってしまった映画だとしても、二度目に観るときには必ず以前に思ったことや感じたことを薄ぼんやりと記憶しているもののようで、たとえその記憶が自意識から呼び起こせなかったものだったとしても、映画を観るとどこでどう考えたかという差異だけがふっと意識に浮かんでくるということである。
自分の場合、たいていの映画はどれだけ感動していた如何に関わらず、そのほとんどの実、全体的なディテールを思い出すことはできない。断片的な映像やシーンははっきりと思い出すことができたりはするけれど、よくいる映画マニアの記憶構造とは違って、流れや手続き的なシナリオの展開は記憶する努力がなされていない(生記憶の状態で一切想起する作業と努力をしていない)ために、どんな話の内容の映画であったかは思い出すことができないようになってしまっている。

なので、なんとなく面白くなかった、だの、もんにゃりな感覚を味わっただの、気色が悪かっただのといったことしか映画の記憶には紐付けられてはおらず、ただそこから得た教訓などだけが別の記憶としてしっかりと保存されているだけだ。
だから忘れるものかと思い込んでいたけれど、今回気付かされたことから鑑みて考えてみれば、確かに視覚的な断片は毎回思い出すことができるし、単純に記憶される仕組みが一般的な段取りというか手順を踏んでいないだけであって、何かしらのストリームとして残されているのではないかという考えに行き当たったわけだ。


それからそれから、もうひとつは、どんなに些細であったり、それ自体が大した問題提起ではなかったとしても、何かをこっちに投げかけてくるものは定期的に摂取していくべきだということ。
私の脳みそは、常に外部からのドミノ倒し的な刺激を待っているのだ。
孤独という手法を用いて内的な論理や感覚・感情をできるだけ拡充していったとしても、資材や文化や様式の違いが圧倒的に自己には足りないのである。


何を言っているのか何を言いたいのか自分でもわからなくなってきたが、とりあえず兎にも角にも、そんな感じ。映画ってほんっとにいいもんですね。