生きた心地がしない

手紙だったりメールだったり、図書館で本を借りることも、誰かに何かして貰うことも、全部ぜんぶそのすべての間隔にある時間が嫌いだ。
生きた心地がしない。
何かを借貸しているという、その拘束されたような、そして体じゅうを高級な羽毛で常にくすぐられているかのような感覚は、私の身の毛をとても強くよだたせる。

すべては想像のせいだ。わかっているけどやめられない。それは自動機械のように、入力に対して正確無比に結果を提出するだけなのであって、あいだに“それではない何か”を差し込もうものならば、その影響が出る前に私という機械は先手を打って想像をより膨らませてしまうのだ。

だから想像もしない。考えない。ほかのことをする。しようとする。


けれど手紙はこない。返事はこない。なにもかえってはこない。かえってこようともしていない。いやかえってくる気がない。相手に返す気がない。何が原因だろうか。原因があるはずだ。いや私よりもみんなすぐれているのだから、私が何かわるい、そうだ私の文章、自分の文章が悪い?そうなのか?読み返してもわからないので、たぶんおそらくこの文はふつうじゃない。普通じゃない何かが含まれていて、いやむしろふつうじゃない何かで覆われていて、全体がもうおかしなふうになってしまっているのだろう。だからかえってこない。かえってこないのは仕方がない。だって返す必要もないのだから。なぜなら私がふつうじゃないから。そうずっとふつうじゃなかったから、普通のことがどうしてもできていないのだ。普通にがんばってなって、ふつうをそれなりに獲得する筈だったのに、どうして普通じゃないの?みんなができて、私にはできないことって、全部が全部、すべてだよね。


それがコミュニケーションだというならば、そんなものいらない。
ほんとうにいらない。さみしいけどいらないよ。


会って話ができたなら、きっといろいろと知ることができるから、私は知ることができてから、安心を得る。
安心がなければ、心はざわざわと蠢いて、どこかあなぐらのなかから、手だけを出して、寝てしまいたくなる。
横目でそっと、眺めたくなるから、もう誰もかれもがみんなみんな、お返事をください。