にんげんのゆくすえ

人間はいずれねっころがってあそぶだけになる。
さっきお風呂とお風呂上りの時間と合わせて二時間ほど考えて出した(極めて主観一方的な)論理による結論だから(主観的には)間違いない。


今夜は地上波テレビで放送していた「アイロボット」を観た。
SFというだけで相当なわくわく感を放っているし、人間の要素を懐疑的に切り取って未来に対する議題を提起するためにわざわざSFという手法を用いているところは、流石にうまいなぁと思ってしまった。(映画のできとしては、CGがとてもよいということと、主人公のイメージはウィルスミスじゃないだろ、と思った以外にとりわけて気になるところはなかったので、案外捨てたもんじゃないといったくらい。)


それと今回、この映画を観るのは二回目だったわけなんだけど、不思議といろんなことを再認識というか、中間質的な感覚に定義を打つことができた。
まず、どんなに忘れ去ってしまった映画だとしても、二度目に観るときには必ず以前に思ったことや感じたことを薄ぼんやりと記憶しているもののようで、たとえその記憶が自意識から呼び起こせなかったものだったとしても、映画を観るとどこでどう考えたかという差異だけがふっと意識に浮かんでくるということである。
自分の場合、たいていの映画はどれだけ感動していた如何に関わらず、そのほとんどの実、全体的なディテールを思い出すことはできない。断片的な映像やシーンははっきりと思い出すことができたりはするけれど、よくいる映画マニアの記憶構造とは違って、流れや手続き的なシナリオの展開は記憶する努力がなされていない(生記憶の状態で一切想起する作業と努力をしていない)ために、どんな話の内容の映画であったかは思い出すことができないようになってしまっている。

なので、なんとなく面白くなかった、だの、もんにゃりな感覚を味わっただの、気色が悪かっただのといったことしか映画の記憶には紐付けられてはおらず、ただそこから得た教訓などだけが別の記憶としてしっかりと保存されているだけだ。
だから忘れるものかと思い込んでいたけれど、今回気付かされたことから鑑みて考えてみれば、確かに視覚的な断片は毎回思い出すことができるし、単純に記憶される仕組みが一般的な段取りというか手順を踏んでいないだけであって、何かしらのストリームとして残されているのではないかという考えに行き当たったわけだ。


それからそれから、もうひとつは、どんなに些細であったり、それ自体が大した問題提起ではなかったとしても、何かをこっちに投げかけてくるものは定期的に摂取していくべきだということ。
私の脳みそは、常に外部からのドミノ倒し的な刺激を待っているのだ。
孤独という手法を用いて内的な論理や感覚・感情をできるだけ拡充していったとしても、資材や文化や様式の違いが圧倒的に自己には足りないのである。


何を言っているのか何を言いたいのか自分でもわからなくなってきたが、とりあえず兎にも角にも、そんな感じ。映画ってほんっとにいいもんですね。