何も知らない
認識していること
と
知っていること
のあいだにはたいへん大きな隔たりがあって、
知っていること
と
ほんとう
のあいだには更に大きな亀裂が走っていて、
ほんとう
と
げんじつ
のあいだには途方もないほどの距離、またはそもそもそれらは別の場所にあって重なり合うことは永久に有り得なくって、
げんじつ
と
認識していること
は、お互いにほんとうだと思い込んでいて、
けれどもそれらすべては同じことのように僕らに取り扱われ、使われ、変えられてしまって、皆の中にそれぞれ違った形で置かれ、共有されて見せ合って、それが私にとっての本当であってしまっている。
現実を認識し知ることは、その認識した現実を真実として摩り替える為だけの行為に過ぎないが、少なくとも嘘っぱちでも、閉じられたほんとうのことよりもほんとうらしいのではないかと私は思う。
認識し知ることのできない現実よりは、ずっと本物らしいが、本当かどうかは現実に聞いてみないと、知ることはできない。
それを認識できるかどうかはどれだけ自分が本当らしいかどうかである。