瞬間の幸福論と自己顕示欲


自分にとって、幸せの感覚に満たされる瞬間というのはどんな時だったろうか。
特定の性質をもった場所か、それとも人から感じ取るものなのか、
与えられるのか、はたまた考えた先にそれがあるのか。
旧来ずっとそんなことを考えたこともなかったから、
頭によぎったままモヤモヤがこびり付いて、今少しばかり戸惑っている。


考えてみればたしかに人間の・・・ような気もする。
最も優越的な悦びは、一番身近な複雑系であり、かつ一番理解が可能なもの、
つまりそれは人を解釈したり人について考えるときに与えられるものなのかもしれない。



それにしても最近は、自分を取り巻く環境をどう切り取っていけばいいのかといったことが、
本当にわからなくなってきている節があって、
この文章だって考えながら書いている割には支離滅裂で破天荒でしょんぼり状態だ。


鋭く、なおかつ効果的に切り取る術というのは、生活の中より得るものなのだ。
普段些細な日常における出来事や、“何もなかったこと”から
自分の枠に嵌る真理をくりぬき出し、優しくこそげ落として形を整える。
その作業を自然に、ごく無意識に行うことができる人だけが、
見事なまでの固有の鋭さのようなものを得ることができるのだと思う。


そのため、人について考えることや、
新しい環境への興味が減っているような今の自分の状態では、
切り取る刃もサビサビになってしまっていることだろうし、
何をどう捉えたらいいかだなんて、
そんなことすらもわからなくなってしまっているわけなのだ。


友達や知人や、繋がっているすべての人たちから受け取ることの出来るものは、
謎解きパズルのような性質を持っているのかもわからないし、
もしかしたら液体を素手で掴むようなものなのかもしれないけど、
生の感覚を、それらに触れることを許された喜びを、
忘れてはなるまいと、それだけ思いつき、ここに記しておくことにする。


それにしても、非常に無機質な日記だと、自分でも思う。
人間的になりたいんじゃないのか。