空間に落ちている点

批評にもならないような稚拙なうわ言を醜く吐き続けているは私だ。
信頼する知人のある日のインターネット日記を読んで、
はっと立ち帰ったような想いに、心が占められた。


確かに私だ。
無責任に幼稚な、情報ともとれぬ愚なる言葉を吐き出して、
すっきりしていたような気持ちに勝手になっていた。
それは私だ。自分に他ならない。


独立した精神性や、その人固有の才能や技能を誇示しているわけでもなく、
ただひたすらに自己満足の空間を跋扈する。
そんな卑怯で愚劣なつまらぬ行為を、繰り返すことすらもせずただ気の向いたままに、
(定例的に見れば)広い世の中へ向けて披露していることの、醜さといったら、ない。


ひとえに、それは人間性の端的に表れるきっかけとなり、
記述された内容は、個人の劣等感の正当化の説明を施して、
分厚く上塗りした、膜のようなものである。


ただしそれらが絶対の悪ではないし、悪というものが存在しないのと同じように、
それらは人の内面を映し現した一つの個性であることは確かだと思う。
しかしながら、それらが表現の一部として存在を認識されているにも関わらず、
私達自身が「醜悪である」と、自己を律する衝動に駆られることが、
正しいと感ぜられるのは何故だろうか。


一番は人、人の必要性は何よりも肝心だからだと、私は考えた。
二番目には、どうしようもない孤独の植え付けられた感覚と記憶の反響が、呼び起こされる。
人間の抱える、この二つの毒々しい未練と感情の粘着性によって、
モラルが自己保護を主な目的として成り立っているとするならば、
私にとって規範は自己損失の恐怖に他ならないのだろうと、そう思って、苦しくなった。


そして人間はどうしてかくも弱いのだろうなどと、
古くから言葉だけでいわれてきたような程度のことを思い、
どうしようもない感情をここにしたためる作業をやり直し、繰り返すのだった。