文章の要

自らに起こった現実的な事象から、それらを紐解くように読者をうまく誘引するのがよく出来た文章だと私は思う。その点において、私個人はその要点をクリアしていないことは明白であり、むしろ人生のうちに人並みくらいの文章を書けるようにしたいと常日頃から考え願ってやまない。

そんな持たざる者はただ渇望するしかないのだろうか。獲得できることは本当に限られているのかと落ち込みつつ考えては見るものの、やはり人間にとって無限の有限を考えることは、しばしば心的な苦痛を伴うもののようで、考えれば考えるほどにどつぼに嵌っていくようだから、もうやめにした。


そもそも文章は練習すれば上達するものなのだろうか。こうしてただ徒に心情を吐露することだけを繰り返していくことが、何かを建設的に積み上げていっているようにはどうしても思えない。それ以前に、この文章は心を含んでいるようには見えない。自分からそう思えるんだから、外の人から見たらもっと酷いに違いない。

話すことの上手なひとが、文章もべらぼうに巧い、という実際の例を私は見たことがない。広い広い、一生知るすべの無いほどのこの世の中のことだから、おそらくそんな出会うだけで感動してしまうような素晴らしい人がいるのかもしれない。けれど現実として、話をする能力と、言葉を紡いでいく能力との間には、たいして相関関係を感じられない気がするのはどうしてなのだろうか。


育った環境が偏っているから?

それぞれが相反した環境ごとの集合だから?


実際には、話がうまく、書くこともうまくできます、という人はそこらじゅうに沢山いる。けれど、ここで私が言いたい上手さというのは、その人が無意識に意図もなく、読み手や聞き手を不思議と惹き付けてしまうような類の巧さのことだ。そんな文章は、たいしたことも書いていないのにも関わらず、とても魅力的でいて、読むものを引きずり込んで行くし、そうした魅力を持った話は、人をまるごと頭ごとどこかへ連れ去ってしまう力を持っている。

それがどんな才能、特徴、から導き出される能力なのかは私にはわからないが、まずおそらく表面的な要素を考えるとするならば、音韻や語尾や文章の流れや論理の展開、それから何よりも内容、そしてどんな言葉を使っているかといったあたりだろう。


だがこれらの表在的な個性だけで、その魅力が導き出されているとは到底思い難い。もちろんそれらの要素も要因として数えることはできるのだろうが、これらの文章の特徴を真似たとしても、その人の「要の部分」までコピーすることはできないだろう。

ならばそれは何なのだろうか。どこから来るのだろうか。すくなくとも考えられるのは、表現というものの中には、表立ってあらわされるもの意外のものすらも、多分に含んでおり、尚且つ読み手である人間が、それらをも感じ取り、自らの内部にて、相手の主観としての事実に近づけるようそれらの仔細な情報を組み立てて、再構築するといった一連の作業を、すべて潜在的な意識下にて行わせるほどの力を具えている可能性がある、ということだ。


表現は、人間の内在と内在とを突き合わせる為の共通のバックドアなのかもしれない。


#気が付くと話がうまい人との関係性があるという話がなくなってしまった。なんというむねん。