反吐の出るこころ


たとえどんなに好きなものであったとしても、
吐き気を催すほどに憎悪し、心を劣悪なものと変えてしまう存在になることだってある。
それがどれほどまでに些細なすれ違いや勘違いであったとしても、
私達が形づくる偶像の群像は、強固なものとして私達自身をその場に閉じ込めている。


人間の心はおおまかには移動しない。
大抵の場合、目的や外部からの刺激によって励起され移動し表出するものだ。
時には引き起こされる飄然たる移ろいは、
ただ取りとめも無く現れて消えていくだけのものでしかない。


けれど移ろぐ思考や感傷からは、
人間の生きるうえでの、ゆらぎや波を呼び起こす作用があるのではないかと思う。
それは常として曖昧な、それといってはっきりとした物理的な重さを持ち、醜く美しい。
波はさらっていくこともあるし、何かを打ち寄せることもある。


善や悪についてのはっきりとした感覚は、一体どこからくるのだろう。
すべてが正しく、誤っているこの世界では、
曖昧さでしか善悪を判断することができないとわかっているのに、
どうしてこんなにも、明確に精確に、ゆらぎの中に現れる悪意を
私は知らぬうちに感じ、憎悪するのだろうか。


とてもいいことがあれば、そんなことは忘れられるのだが。
けれど、それもその間だけなんだけど。