正月は終わった

 どうせどのみち誰も見てなどいないのだから、小奇麗に保とうだなんて愚考をせずに、つらつらと駄日記を残してしまおうと思い立ったのでとりあえず書いてみる。

以下推敲なしのへんちくりんなものです。


正月は終わった。

 新聞を見ると「まるで13月がきたようだ」と書いてあり妙に納得をするも、その発言がなされた時の話者の境遇と、その後の新聞による論説の両方が、共々決して私には全くそぐう物ではないということに拍子抜けした。読者の共感を引き起こそうとする方向性のマーケティングならば、ああいうものは無意味だ。無意味だと心の中で唱えて平静を保とうと試みる。

 そういった些細なことが、日々主観によってズームアップされてしまうので、細々としたことが降り積もり、息が苦しいような感覚に落とし込まれる。矮小な人間は日常すら愚かなものです。気に食わないことを気にしすぎて気に食わなくなる無間空間はここにあります。

 たとえば、ちょっとした違いが引き起こす種々の段差のようなものは、ちょっとした未来を予測する能力さえあれば気付くことができるもの。今は小さな亀裂であっても、それらの違いはいずれ乗り越えられない段差にまで“増長する”ので、日々その感覚を研ぎ澄ましていないと大変なことになる。たったそれだけの想像力の違いが、人間の性質と与える印象を大きく左右しているように思う。

 つまりこの駄散文で何を言いたいのかというと、何も書くことがないのに何かを書きたい時は、書き捨てたメモ用紙の裏にでも書いてろってことなのです。私がね。