センス・オブ・ワンダーの卑劣さ
現在、SFや小説、とりわけファンタジーの世界において、センスオブワンダーという観念は非常に有効な考え方であると認識されている。このセンスオブワンダーという表現は、一般的に言葉や論理では説明の付き難い事象に対しての感情を的確に表しているといわれている。そしてこの言葉は、抽象的な「不思議感」を便利に表現することのできる、優れた概念であるともされ、日本においても様々な箇所で使われることが多くなってきている。
だがしかしながら、私にとって、これは優れていると同時に、極めて融通の利かない概念だとも感じている。何故なら、これは典型的な英語圏における独特な感性に他ならないからだ。
典型的な英語圏における独特な感性、とはどんなものかというと、抽象的な概念からトップダウンで表現を綴っていく妙技、とでも言えばいいだろうか。ご存知のとおり英語における言語体系というのは極めて論理的なものであり、まず大まかな感覚的な階層から言葉を組み立てていき、より範囲の狭まった詳細を後に後に継ぎ足していくことによって説明を施すのである。
よく英語の文法は「言いたいことを先に言う」ので難しい、といった話を耳にすることがあるが、これは我々にとって単に難しく感じるというだけのことであり、勿論のことながら、生まれてよりずっと英語圏に暮らしているネイティブスピーカー達はその文法が体系的であるということを日常より実感しているという(らしい)。
これらの文法体系が表現しているのは、コンピュータ等でもみかけることの多い樹形図やツリー構造に似た、それらに近しい考え方だ。この表現方法は自然界における動物の分類を表現する際に使用されていることからもわかるように、非常に論理的でいて理解が簡便であるということがわかると思う。
そして同時に言語は人の考え方や趣向を、ある程度左右し続けることだろう。活字による表現たちや、日常における会話表現のすべてがこれらを基本の礎とし、その上に成り立っているということを考えてみれば、その影響の重大さを計り知ることができる。つまり英語圏におけるツリー構造の文法体系というのは、彼らの文明圏において現在までの磐石なる文化の発展を齎すために、必要不可欠なものであったのではないだろうか。
そうして育った文化たちの中には、それぞれの文化独自の精神が育まれているのが常であり、彼らの思考の癖ともいうべきものには、あたかも言語から影響を受けているかのようなものが散見する。たとえば動詞一つ一つにおける信じられないほどの多義性や、勧善懲悪をはじめとするプロット通りのお芝居などに見られるのがそれだ。
これらは一見して、単純化されエッセンスのみが残されたもののように思えるが、実際のところ描写はそれなりに仔細にまで行き届いていたり、表現している内容のレベルとしては私達の国のそれとあまり変わりはないのだ。けれども、注目すべきはその構成であり、まさしく一見してシンプル、その後に詳細が展開されていくというのは英語圏にみられる作品たちの特徴であり、そして私達の文化にはあまり馴染みのないものでもある。
前置きが長くなったが、それではここで話を戻すことにする。
さて、彼らの文化においての「曖昧な中の細やかさ」、そして、私達日本の文化の中においての「仔細の中の曖昧さ」、これらは一見似ているようではあるが、全く逆のことをいっている。それぞれ全体から感じるものの内容は異なっており、各々、微細なものから与えられる感性もまた違っているのだ。それは、仔細を通じて世界を視るのと、全体から世の中を決定付けることの違いである。
だからどうした、と思われるかもしれないが、センスオブワンダーの考え方は、何故かはわからないが、仔細を抽象的に繰り上げてひと括りするといった、そもそもの英語圏的な思考方法が逆転してしまっている。けれども、事象を抽象的に扱うのが基本観念なのには変わりがない。これらはどうにも不思議な、まさしくセンスオブワンダーを感じざるを得ないものとなっているのだ。おそらく、この表現方法こそがセンスオブワンダーという言葉自体を自己回帰的に説明しており、その「本当は何も表せてはいない表現」という不思議さこそが、人々を惹きつける要因となっているのではないかと思う。
だが我々日本人にとってこの表現からは、どこかムズムズとした違和感のような、言いかえれば不自然さといったものを感じはしないだろうか?最初私がこの言葉に出会ったときには、その考え方に感銘すら与えられたものと思っていたのだが、時間が少しずつ経過するに従って、私にはどうも馴染めないような、感覚的な齟齬を感じるようになってきたのである。
この違和感の原因はおそらく、私達の文化の特質からくるものだろうと私は考えている。遥か昔から、ミクロからマクロを見出すことをひたすら繰り返してきた我々にとっては、この“不思議感”はむしろ言われるまでもない当たり前の前提要素であり、問題はその何とも言い難い“不思議感”を、どう多様に表現していくのかといった部分に、我々の文化のフォーカスは向いているのではないか、と。
そうすると、私達にとってみれば、この表現は一歩どころか大分遅れてしまっていると言わざるを得ない。けれどこの場に誓って是非言いたいのは、決してこの表現が劣っているということではないということだ。これらの発想や考え方は非常に優れているものであるし、私達が感じているのは単純に文化的な差異がもたらした違和感に過ぎない。またこれらは万人にも分かり易いようにできている。それでは一体何がまずいのかといえば、その使われ方が問題なのである。
煎じ詰めていってしまえば、美人の嫁はすぐ飽きる、スルメは噛めば噛むほどに、味がでるもの、ということになる。つまり、本来ならば味わい深いはずの、この世界のこまごまとした、多様でいて複雑怪奇な事象たちをひと括りにしてしまうだなんて、そんなのもったいないじゃないか、ということなのだ。
センス・オブ・ワンダーという言葉自体は、レイチェル・カーソンという一人の女性生物学者の著書により広く一般に知らしめられたとされている。ただSFの世界においては、もっと以前より使われていたとの話も聞くので、これについても興味が尽きない。
今日においては、沢山の意味を沢山の人々に与えられ、育まれている真っ最中の言葉なのだ。そしてもちろん、この言葉の意味するところは、私にとっても心躍るものがあるし、また一人の人間として、この星の自然より与えられているある種の神秘のようなもの、または森を司る神々といったような、人知を遥かに超越した“何ものか”についてのことが表現されるのは喜ぶべきことだと思っている。ただなにぶんにも、どうしても、私にはこの優れた表現が、安易に軽々しく乱用されていいものなのか、疑わざるを得ないという話なのである。